講座全体の構成や題目設定はもとより、従来と同様のテーマが掲げられている場合でも、その取り扱い方が大きく変化していることに容易に気づくはずです。
そしてそれにより、哲学研究者も哲学者と称する人も経済人や経済研究者と何ら変わりない"俗世間"に生きる人たちであることが改めて知られるでしょう。
高度経済成長は従来の日本人の価値観を揺さぶり、人々の物の見方・考え方を根底から大きく変える機縁となりました。
それ以後思惟一般が大きな変容をこうむるにいたったのは当然です。
その変化は多層多面にわたります。
階級史観は空中分解し、「革新」思想もすたれました。
あるいは、物質的な豊かさは、日本人にも、モノに固執しない・モノ離れの発想を受容する余裕を与えることとなり、その後の、コトや記号や象徴などを前面に押し出したり、実利即物には縁遠いことどもに没頭したりする「現代思想」の開花条件を整えました。
そのほか、未紹介思想の開拓という面でも、古今東西を問わず、これまで埋もれていたあれこれの周辺的な思想を広く渉猟するだけの余力を日本資本主義はもつことになるのです。
へーゲルは哲学を「ミネルヴァのふくろう」にたとえて、時代精神の総括者としての位置づけを与えたけれども、それはへーゲル哲学の自己弁護と自己権威づけのためにすぎず、一般的に当てはまることではありません。
後進国ドイツの立場からは、せめて先進国(イギリス・フランス)をその一部として包摂するような哲学体系を作ることによって、先進国を観念的に超克するよりほかに「先」に出る方途はなかったのです。
哲学であれ社会科学であれ、およそへーゲル・タイプの体系を志向する理論は、そういう意味での後進性と、そしてあえていえば、その周囲にいる学問上の先行者に後れをとったという意味での後発性とを、一挙に乗り越えようとする形成動機をバネにして構想されることが多いようです。
あるいはもう一つの形成動機として、体系美に魅せられるという美意識が働いているケースもあるかもしれません。
ともあれそうした乗り越え動機にとって、「弁証法」とも称される乗り越えの論理としてのへーゲル流三分法(トリアーデ)はまことにうってつけです。